昔、投稿天国でかな〜りマニアな競馬コラムを書いて、 かな〜りマニアな人のみにウケていた、『競馬のけ』の作者、“みやっち”。 そのコラムを通じて知り合うことになり、毎晩のように競馬談義に花を咲かせる お好み焼き屋、“ぐっさん”。 二人の「福井の隠れ競馬ファンと知り合って、競馬のロマンについて語り合いたい」という、 たったそれだけの想いで始まったこのサイト「競馬鹿人生」。 今夜も ぐっさんの店で競馬談義が始まった!
やっとロンシャンスペシャルできました。 |
福井の競馬ファンに捧ぐ
ライデンリーダーの脚に惚れたWクロスの、 |
流星の貴公子 テンポイント
文/Wクロス
数奇な運命の星の下に
私が競馬を本格的にはじめるきっかけになったのは、「ライデンリーダー」からでした。報知杯4歳牝馬特別(現・報知杯フィリーズレビュー)での衝撃的な追い込みを見てから、私の競馬ファン人生は始まったのです。そのライデンリーダーの父は、ワカオライデン。ワカオライデンの血統をたどると、近親に日本競馬史上に残る名馬が登場します。
その名馬こそ、「流星の貴公子」と呼ばれた「テンポイント」です。
テンポイントの生い立ちは、数奇な運命に満ちたものでした。
テンポイントの祖母ワカクモは、32戦11勝をあげた名牝でしたが、5歳(現4歳)の6月に「伝染性貧血症」(遺伝力が極めて強く、治る可能性はゼロと言われている病気)にかかっていると診断され、法律により薬殺処分が決定したのです。
しかし、クモワカを殺すに忍びないと思った関係者は、必死の努力により北海道の吉田牧場にクモワカをかくまったのでした。クモワカは伝貧の「疑い」と診断されただけに過ぎず、不治の病のはずのクモワカは3年経っても元気であり、他の獣医からは伝貧ではないというお墨付きをもらったのでした。そこで関係者は、消えてしまったクモワカの血統登録を復活するよう申請をしました。
だが、拒否されてしまいました。何故か? 復活を認めてしまったら「競馬界の秩序を乱す」事だからだという理由からです。遂に、血統登録を求める裁判に持ち込まれ。クモワカと生まれた子供たちの血統登録が認められたのは、実にクモワカが行方をくらましてから11年の後でした。
その血統登録が認められた年(1963年)に生まれた仔が、ワカクモでした。ワカクモは、クモワカが2着に敗れた桜花賞を勝ち、母の無念を晴らしたのです。「幽霊の仔快走する」、そんな見出しが新聞に躍ったとか。ワカクモは11勝をあげた後、繁殖入りして種牡馬コントライトの間に1頭の牡馬を生みました。
それがテンポイントなのです。
クラシックへ。そして3強の邂逅
デビュー戦は函館で、大差のレコード勝ち。
その後、皐月賞まで破竹の5連勝。当時今とは違って、“東高西低”だった競馬界に現れた関西期待の星でした。皐月賞は、厩務員ストのあおりを受けて日程が変更。舞台も東京競馬場にて行なわれることになりました。この皐月賞で、テンポイント生涯のライバルとなる馬が現れます。
「天馬」と呼ばれたトウショウボーイです。
トウショウボーイも、デビュー後圧勝続きで皐月賞に臨んできました。テンポイントは、本来中山で行なわれるはずの皐月賞本番に向けて体調を整えてきたのに、2週間じらされてしまい、コンディションに難がありました。対してトウショウボーイは、皐月賞本番まで調整不足だったのですが、2週間伸びたことにより万全の体制が整いました。
結果はトウショウボーイの圧勝。
テンポイントは2着争いに何とか競り勝ったのですが、この時点ではトウショウボーイとの実力差は歴然としていました。続く2度目の直接対決のダービー。鞍上に武邦彦を迎えて挑戦しましたが、レース中に骨折してしまい、7着と敗退してしまいました(トウショウボーイは2着)
ダービー後は秋まで休養。復帰初戦の京都大賞典で3着となり、クラシック最終関門の菊花賞を迎えます。レースは直線でテンポイントが先頭に立ち、そのまま押し切るかに見られたました。が、内のほうからするすると、緑のめんこを着けた馬が上がって来ました。そしてテンポイントを交わしてゴールを駆け抜けました。この馬こそ、後にテンポイント、トウショウボーイと共に「3強時代」を築いていくグリーングラスだったのです。テンポイントは2着、トウショウボーイは3着に終わりました。
テンポイント4歳最後のレースは有馬記念。4度目のトウショウボーイとの対決でしたが、結果はトウショウボーイの後塵を配して2着。翌年に雪辱を期すことになったのです。
初のビッグタイトル。だが……
翌年、5歳のテンポイントは初戦の京都記念、2戦目の鳴尾記念を連勝し、悲願のビッグタイトル奪取のために、春の天皇賞に挑みました。ただ、去年と違うのは、クラシック戦線で争い続けたトウショウボーイの姿がなかったのです。ライバルのいない天皇賞。レースは直線先頭に立ったテンポイントがグリーングラス、クラウンピラード、ホクトボーイらの追撃を振り切り、遂に念願のビッグタイトル奪取に成功しました。
1977年4月29日 京都競馬場 第75回天皇賞・春 優勝 ジョッキー:鹿戸明
天皇賞を勝ったテンポイントが次に目指したのは宝塚記念。目指すはトウショウボーイ。去年の雪辱を晴らす機会が訪れたのです。
しかし、もまたしてもトウショウボーイの後塵を拝して2着。
中距離では絶対的なスピードを誇るトウショウボーイはやはり強かったのでしょうか。雪辱のチャンスは秋に持ち越されました。
秋の天皇賞に出られないテンポイントは、(当時、天皇賞タイトルを取った馬は、再び天皇賞には出られないというルールがありました)京都大賞典を勝利、続いてオープン特別に勝ちます。
しかし京都大賞典では63キロ、オープン特別では60キロという斤量を背負わされました。
この斤量負けしないところが悲劇を招くとは、この時点では誰も知る由もありませんでした。
年末の有馬記念に向けて着々と調整をしていたテンポイント陣営に、大ニュースが飛び込んできます。
ライバル.トウショウボーイが有馬記念を最後に引退。北海道で種牡馬生活に入るというものでした。
雪辱のラストチャンスは、有馬記念。最後の決戦に向け、調整が続きました。
そして機は熟した
時に、昭和52年12月18日、遂に雌雄を決する時が来ました。
単勝人気は初めてトウショウボーイを押さえ、テンポイントが1番人気に。多くのファンが、テンポイントに期待を寄せていた証拠でしょう。馬体もたくましくなり、気力体力ともに万全の体勢でした。
レースは8頭立て。回避馬が続出して(マルゼンスキーも参戦予定だったが脚部不安で引退してしまいました)少々頭数的には寂しいものでしたが、それでも「TTG」の3強対決ということで俄然注目されていました。
「テンポイントが遂にトウショウボーイを実力で凌駕するときが来るのか」。ファンの視線はその一点に注がれていたのではないでしょうか。
レースは序盤から予想外の展開で始まります。
トウショウボーイがハナを切り、2番手にテンポイントが続く。人気馬2頭のマッチレースの様相に、場内が騒然となります。どちらか一方が潰れてしまうのでないかという不安がファンの心によぎったと思います。
しかし、両馬は馬体をびっしりと合わせ、互いに一歩も引かない。特にテンポイントにとってはこれが最後の雪辱のチャンスです。ここでトウショウボーイに負けることになれば、永遠にテンポイントはトウショウボーイより弱い、と言われる事になる……。何が何でも勝ちたい気持であったでしょう。意地でも食らいついていく、そんな気迫で執拗にトウショウボーイに競りかけていきます。
そして2頭が絡み合ったまま最後の直線に。
いったん前に出るテンポイント!
内から差し返すトウショウボーイ!
外からグリーングラスも飛んできた!
もう一度前に出るテンポイント!!
もう一度差し返すトウショウボーイ!!
しかし最後の最後、テンポイントがぐっと伸び、栄光のゴールを駆け抜けたのです!!!
1977年12月18日 中山競馬場 第22回有馬記念 優勝 ジョッキー:鹿戸明
遂に、トウショウボーイを実力で倒したのです。
マッチレースというには余りにも壮絶な、しかし素晴らしい名勝負でした。このレースを日本競馬史に残るレースだという人は多いです。この勝利により、現役最強という名を確かなものとし、年度代表馬にも選出されたのでした。そして、テンポイントは次なる舞台へと赴くことになったのです。
酷量の果てに
次なる舞台とは「海外遠征」です。
国内にとどまっても、大レースは天皇賞と有馬記念ぐらいであるし(宝塚記念は当時まだ価値は低かった)、しかも天皇賞は出走できない。他の重賞に出ても過酷な斤量との戦いになる。
自然に陣営の目は海外(ヨーロッパ)へと向けられました。
「ヨーロッパで滞在競馬を行ない、
最終的に凱旋門賞に出走して、
当時のアメリカ3冠馬シアトルスルーと対決する!」
そんな夢のようなプランでした。そこで陣営は、海外遠征に出て行くテンポイントのお披露目をしたい、そんな意向もあり1戦だけ壮行レースに出走することを決めました。それが「日本経済新聞杯」(現.日経新春杯)でした。
このレースは今も昔もハンディキャップ競走です。テンポイントに課されたハンデは、
66.5�……。
さすがにファンの間からも「無茶すぎる」、「出走を止めさせることは出来ないのか」という声も少なからず上がりました。しかし、これまで過酷な重量も克服してきたテンポイントなら、このハンデも克服できるだろう、というのが大方の見方でした。
1978年1月22日、京都競馬場。
この日は粉雪舞う寒い日。そんな中をテンポイントはパドックを回ります。ファンは最後の勇姿を一目見たいと、熱い視線を送っています。
この先に待ってる運命を、彼も、関係者もファンも知らずに……。
9頭立てのレース。粉雪舞う中を淡々とレースは進みます。第3コーナー。テンポイントはエリモジョージと並び先頭に立ちました。誰しもがここからテンポイントの一人舞台だ、と思ったはずです。
が、しかし……、
京都名物坂の下り。いよいよ4コーナーという所で異変が発生しました! 立ち上がるようにテンポイントの動きが止まり始めます。
誰しもが「故障」の2文字を頭に浮かべました。
鞍上の鹿戸明が下馬する。山田厩務員が急いで駆け寄っていく。
まさかこんなことになろうとは……。誰もがそう思ったはずです。
しかし、夢ではなくそれは紛れも無い現実でした。
ファンが抱いていた海外遠征の夢、テンポイントへの夢は、粉雪とともに、消えました。
一族につきまとう、11という数字
左後脚複雑骨折。
競走馬としての悲しい性か、テンポイントは骨折後100Mほど走ってしまい、骨が見えて鮮血が吹き出していました。普通なら即座に安楽死の措置が取られる致命的な怪我でした。しかし、テンポイントは華々しい戦績を上げてきた馬。何とか血を後世に残したい、奇跡を信じたいという関係者の願いにより、翌日、手術が行なわれました。それは、医師33人が立ち会うという一頭のサラブレッドに関わる手術では空前の規模でした。2時間に及ぶ手術は成功。4本のボルトが脚に入り、いったんは明るい兆しが見えました。
ここから、テンポイントの過酷な闘病生活が始まります。
全国から送られてくる千羽鶴。「頑張れ!テンポイント」の横断幕。それらに囲まれた馬房のなかでテンポイントは“生”への戦いに挑みました。
1月は吊起帯(体を吊るす)依存と自力駐立と繰り返していましたが、2月22日に恐れていた蹄葉炎(肢に故障を発症し、動けずに他の肢で負重し続けると、蹄の内部の血液循環が悪化し、炎症を起こす)を発症します。故障した反対側の右脚に蹄葉炎は発症したのです。体重が掛かり過ぎたために起こったのです。蹄葉炎は進行すると完治しなくなります。
3月1日、蹄葉炎の進行が認められ、ここから急速にテンポイントは衰弱していきます。
そして、1978年3月5日、午前8時40分。全身衰弱による心不全……。
故障時500�あった体重は、380kgまで減っていました。
こうして、テンポイントの42日間の戦いは、幕を閉じたのです。
「流星の貴公子」は、永遠の流星となったのでした。
翌日のスポーツ新聞はどの新聞も大見出しでこのニュースを伝えました。
「テンポイント」という名は、新聞のテンポイント活字で取り上げられるような馬に成長してほしい、という願いから名づけられたものです。それ以上の大きな活字で取り上げられたのでした。しかし、余りにも悲しすぎる見出しでした……。告別式は生まれ故郷の吉田牧場で行なわれました。参列者は約1000名。母ワカクモも参列しました。
祖母クモワカ、母ワカクモ、弟キングスポイント(最優秀障害馬のタイトルも獲得した事があったが、中山大障害で落馬、予後不良)、そしてテンポイント。いずれも11勝で競走生活を終えています。
この11という数字は、一族の数奇な運命の象徴と言えるのかもしれません。
クモワカ一族の栄光と悲劇
テンポイント直系の血は途絶えました。
しかし、祖母クモワカから続く血筋は生きていたのです。 テンポイントの母の従兄弟に当るダイアナソロンは、1984年の桜花賞を制しました。また、甥であるフジヤマケンザンが、1995年の香港国際カップ(当時国際G㈼)で、叔父テンポイントのなし得なかった海外重賞制覇を成し遂げています。
そしてそして、甥のワカオライデンは中央競馬で活躍した後地方の笠松競馬に移籍。地区タイトルを総なめにして種牡馬入りし、ライデンリーダーを筆頭として地方競馬のリーディングサイヤーとして活躍しています。
クモワカがもし薬殺処分されていたら、私は競馬ファンにはなっていなかったのかもしれません。クモワカから続く血統が残っていなければワカオライデンもなくライデンリーダーもなかったのですから。
そのクモワカ一族の数奇な運命と栄光と悲劇の象徴、それこそがテンポイントなのです。
現在、テンポイントは故郷吉田牧場で祖母、母、弟たちとともに静かに眠りについています。連日、墓参に来るファンが絶えません。
余りにもドラマチックな出生、
幾多のライバルたちとの死闘、
そして闘病生活と悲劇的な最後……。
テンポイントの死から27年が経ちました。
しかし、月日が経とうとも、
彼が、テンポイントが人々の胸に残していった思い出は
決して消えることはないでしょう。
肉体は滅びても、その魂は人々の心に刻み込まれているはずです。