昔、投稿天国でかな〜りマニアな競馬コラムを書いて、 かな〜りマニアな人のみにウケていた、『競馬のけ』の作者、“みやっち”。 そのコラムを通じて知り合うことになり、毎晩のように競馬談義に花を咲かせる お好み焼き屋、“ぐっさん”。 二人の「福井の隠れ競馬ファンと知り合って、競馬のロマンについて語り合いたい」という、 たったそれだけの想いで始まったこのサイト「競馬鹿人生」。 今夜も ぐっさんの店で競馬談義が始まった!
レコルト優勝でさまさん独走!!
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福井の競馬ファンに捧ぐ
だいぶん前に福井新聞社に見学に行ったとき、 |
福井に競馬場があったことをみなさんご存知でしょうか?
いや、この前ぐっさんが「福井競馬場ってのが昔あったんだって!」って話をしていたんで、
本当にあったのかどうか気になったんです。
私も噂では聞いた事があったんですけども、真偽の程が定かではありませんでした。
あんまりにも気になったんで、福井県立図書館に行って、歴史の本などを読み漁って調べてみました。
そうしたら……、確かに「福井競馬場」は実在しました!
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福井県で競馬が始められたのは、大正14年(1925)。
大野郡篠座(現在の大野市篠座)に、大野畜産組合が敷地3万坪の「大野競馬場」を設立、
同秋、地方競馬規則によって競馬を施行したのでした。
その後、昭和3年(1928)に福井市の近郊、足羽郡東安居村水越河川地籍(福井市水越)に、
約2万坪の簡易な設備を持った競馬場が設立。
同10月に福井足羽馬匹畜産組合主催の「優勝投票競馬会」が開催されました。
その後3年にわたって競馬は行なわれましたが、
交通が不便であった為に、もう少し便利な地を選んで人を集めることが必要であると考えられたのでした。
そこで昭和6年(1931)、福井市下北野町に約3万坪の競馬場を新設したのです。
地図の右側に見えるのが競馬場。今の成和中学校あたりかと
後ろに見えるのが宗法寺だそうです。今の高志高校の斜め向かいにあります。
そこからパリオまでの敷地が多分競馬場であろうか、と
この頃になると、関西や北陸の各地から優駿が参加するようになり、
競馬に対する一般ファンの関心も高まり、次第に盛況を呈することになりました。
大野競馬場は、その後軍用保護馬鍛錬馬場として使用されていましたが、
昭和7年(1932)11月、再び地方競馬規則によって認可されて競馬場として再発足、
福井競馬場と共に昭和12年(1937)年まで開催が続けられました。
しかし、その年に日中戦争が勃発し全国的に競馬は中止となり、
太平洋戦争の泥沼化と共に、競馬場は食糧増産のために開墾されたのでした……。
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太平洋戦争に敗戦した後、福井市に公認競馬場を設置する動きが出てきましたが、
戦前に「大野競馬場」があった大野郡と、
旧陸軍歩兵三十六連隊が駐在するため多くの軍用馬がいた鯖江が、競って誘致合戦を行なっていました。
紆余曲折を経ましたが、昭和22年(1947)年3月、福井市は農林省からの内諾を得て、
「馬事思想の普及と地方財源の確保」のための地方競馬を行なうことを決定。
市では境町に敷地を求め、同月31日から敷地造成に入ります。
ところが、農地改革問題に絡んで県の農地委員会から横槍が入り、工事が一時中断してしまいます。
しかし、市長らの奔走によって7月2日の委員会で本決まりとなり、
その後急ピッチで造成工事を行ない、同10月末に完成したのでした!
面積は4万坪、走路は一周1100メートル(これは笠松競馬場と同じ規模)、スタンドは2000人収容でした。
スタンドの下には商店街(売店)があり、また2階建ての事務所、入場券発売所、審判所、検量所などの設備を完備。
総工費は約1000万円でした。
運営機関は福井競馬協力会で、後に競馬法が制定されてからは県と福井市で運営することとなります。
第1回の競馬は昭和22年11月1日〜4日に行なわれました。
開催に先立って、10月31日午後から競馬場で竣工式を行ない、
その後約50頭の馬が市内をパレード(!)、開催をアピールしました。
そのおかげか、市内外の愛好家が大挙して押しかけ、「予想屋」も大繁盛。
福井新聞には嘘かどうかわからないですが、5万人という記述がありました。
4日間の馬券売上は500万円を越えたそうです。これ以降、毎年4〜5回の競馬が開催されていきます。
私の想像ですが、当時の競走馬の種類としては
★サラブレッド(ごく少数、軍用馬下がり)
★アングロアラブ(戦前軍用馬として大量生産された馬。鯖江にいた軍用馬の多くはこれだったと思われます)
★血統不詳の農耕馬
この3つしか考えられません。
また、騎手も恐らく元軍人が多かったのではないでしょうか。陸軍なら移動手段で馬を操らないとなりませんから。
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順風満帆に思われた福井競馬でしたが、思わぬライバルが現れます。
「競輪」です。
競輪は戦後にできたものですが、競馬よりも幅広い層をファンとして吸収していきました。
一時期は、公営ギャンブルの総売上の6割が競輪によるものだった時代もあるくらいです。
そして、開催日も競馬と比べ物にならないくらい多く、売上も右肩上がりに伸びていったのでした。
かたや競馬は競輪の開催とバッティングしないように開催が組まれていたために日数が少なく、
またそれに伴い賞金も低かった為に、「馬主が馬を預けない=競走馬が集まらない」。
まさに現代の地方競馬が抱える問題を50年前に既に抱えてしまっていたのでしょう。
昭和27年(1952)をピークに売上が減少。県は昭和30年(1955年)に競馬から撤退。
福井市単独で運営していましたが、
ついに昭和33年(1958)、市への一般会計への繰入金がゼロになってしまいます。
……そして、昭和38年(1963)、正式に福井競馬場は廃止になったのでした。
ちなみに、地方競馬法が昭和23年に施行されてからの廃止第1号は、この福井競馬場です。
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たった10年足らずの歴史でしたが、確かに福井競馬場は存在しました。
競馬場が廃止になってしまったのは、競馬が人気がなかったというわけではなく、
あくまでも経営上の問題でしょう(開催が年にたったの4開催では到底……)。
戦前から競馬場があったのは、市民の競馬に対する興味と理解の表われだと私は思っています。
もし現在も福井に競馬場があったら……。
まあ、歴史には“IF”はないんですけど、
福井の人の競馬に対する見方とかが少し違ったものになったのかな、と思ってしまいます。
笠松からオグリキャップが出たみたいに、福井から超ド級のスーパーホースが出るって夢も見られたかもしれませんしね。
恐らく、現在では福井競馬場が存在したことを示す遺構とかは残っていないはず。
歴史の本と、ごく一部の人々の記憶の中にだけ、福井競馬場は存在しているのでしょう。
参考文献「新版 福井市史Ⅰ」「大正昭和福井県史 下巻」